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BPSS03 海辺のアルバム
「あ、猫」
 日だまりの石段に丸まって眠る黒ぶちの猫を見つけ、芦野は注意深くレンズを向けた。シャッターボタンを押そうとしたそのとき、ファインダーいっぱいに収まった顔のヒゲがぴくりと動いて猫がゆっくり目を開けた。芦野と猫の視線がレンズを通して交錯し、芦野は硬直した。耳に届いていた波の音も遠ざかり、時が一点に凝縮されたような気がした。永遠と思えるような一瞬の後、やがて猫は何もなかったかのように目を閉じ、まどろみはじめた。知らぬ間に呼吸を止めていたのに気づき、芦野は静かに息を吐き出した。失敗しちゃったな。芦野は結局シャッターを切らぬまま、カメラを下ろした。

 江ノ島に来るのは久しぶりだった。夏の間ずっと行こう行こうと思っていたのだが、それは叶えられぬまま、すでに新しい年を迎えていた。
 二月三月と連続して発売される新譜に向けてブログを始めようと言い出したのは、新しいマネージャーの松本だ。いつも精力的に動き回り、いかにもやり手といった雰囲気を漂わせていた柴山と違って、金髪でチャラい格好をした松本は茫洋として掴みどころがない。加えて極端に口数が少ないので、何を考えているのかさっぱり分からない人だ。それでも彼のなかでは常に何事かが計画されているようで、時々ぽつりと決定事項だけを伝える。「ブログやるよ」というふうに。

 西秋と大木はピンとこないようだったが、芦野はちょっと嬉しかった。文章は苦手だけれどもブログなら写真も載せられる。以前から興味を持って、独学で少しずつ練習していたカメラの腕を見せる機会だ。さっそく撮りためた写真の一部を松本の元に持参したのだが、そっけなく「ケータイでいい」と一蹴されてしまった。Black Perfume メンバーの日常をざっくり無造作に切り取った、ゆるい感じにしたいということらしい。確かに、西秋や大木の写メ日記に混じって、一人だけ本格的な写真作品を載せるわけにもいくまい。いや、それ以前に、まだ作品と呼ぶのもおこがましい習作に過ぎない。人様にお見せするのも申し訳ないと早々に諦め、今までどおりカメラは趣味として続けていくことにした。
 昨年末から新譜の準備に大学受験にと、ずっと続いていたきついスケジュールのなか、この日はようやく取れた久々のオフで江ノ島に撮影旅行に来ていた。旅行とは大げさで、せいぜい散歩程度ではあるけれど。


★  ★  ★


 江ノ島は芦野のお気に入りの場所だ。海と山と町、すべてがコンパクトにまとめられたこの島が、彼女には宝石箱のように感じられる。何度訪れても新鮮な景色を発見できて、飽きることがなかった。カメラを携えてぶらぶら歩くのには最適だ。

 いつもは弁天橋を通って島に渡るのだが、今回は橋の手前にある船着場から「べんてん丸」に乗ってみた。シーズンオフにも関わらず、乗客は結構多い。片瀬川を下るべんてん丸はほどなく河口を出て、左手に江ノ島を望みながら進む。
 海から眺める江ノ島は、まるで空から降ってきた森のようだ。こんもり茂った樹木がてらてらと陽の光を反射し、生命力を感じさせる。のんびり糸を垂れる釣り人がぽつぽつ見える磯を過ぎると岩屋海岸の船着場だ。十分ほどの短い船旅は、あっけなく終わった。
 船を降りた乗客たちは稚児ヶ淵や岩屋、あるいは島の奥へ進む石段と、思い思いの方角へ足を向ける。いっとき、周囲はざわめきに包まれたが、乗客の姿が遠ざかるにつれて静けさが戻ってきた。芦野はひと気がなくなるのを待ちながら、桟橋からきらきら輝くはるか沖へと目をやった。空には数羽のトビが舞っていて、笛の音めいた鳴き声が微かに鼓膜を震わせる。ほんの少し海を隔てただけで、なぜこんなに静かなんだろう。騒音とは人間の経済活動によって発生するものに違いない。芦野はそう思い至り、しばしの静寂を満喫した。

 芦野は誰もいなくなった海沿いの小道を石段へと進んだ。このまま一気に恋人の丘まで登り、その後は東参道に折れるか展望台に向かうか、気分次第で決めよう。注意深く被写体を探して歩きながら、最初の茶屋を過ぎてすぐ見つけたのが、あの黒ぶちの猫だった。
 普段、芦野が撮るのは静物や風景が主だ。自分がまだ被写体に対峙できるだけの力を持っていない気がして、人物にレンズを向けることには躊躇してしまう。人間に限らず、いきもの全般に対しても苦手意識があるのだが、しかし猫だけはなぜか気負わずに撮ることができる。こちらがどんなに思いを込めても、まったく意に介さず受け流してくれる気がするからだ。彼らはモノとイキモノの中間に位置する存在だと、芦野は思っていた。それだけに、いきなり視線を合わせられたりすると、生々しい命の片鱗に触れたようで、たじろいでしまうのだった。
 苦手なのは写真自体にも言える。幼い頃、芦野は写真というものが大嫌いだった。


★  ★  ★


 学校に上がる前から、盆暮れには両親や兄と祖母の家へ帰省するのが常だった。思い返せば、港近くに建つ古い大きな家はいつも潮の香りがして、江ノ島の空気とどこか通じるものがある。帰省は楽しみだったが、ただ家の奥にある仏間だけは怖かった。薄暗く冷え冷えとした仏間の鴨居には、会ったこともない先祖の肖像が並び、芦野を生気のない目で見下ろしていた。心の底を凍らせるような、固く強ばった白黒の顔。怯える芦野に「ただの写真だから怖くないよ」と母が言った。そうか、この恐ろしいものは写真というのか。それは最も古い記憶のひとつとして彼女に刻み込まれた。

 仕事の都合でたびたび転居を繰り返していた芦野の一家だが、出会ってはすぐ別れてしまう人々や場所を、両親は芦野とともに多くの写真に収めた。別れの悲しみを癒すため、あるいは思い出のよすがになればとの両親の配慮だった。しかし別れることを悲しいと思う感覚自体、芦野にはなかった。それは彼女にとって当然訪れる、日常の延長だったからだ。シャッターを切られる瞬間ごとに積み重なる、乾いた過去のデスマスク。写真は芦野のなかで、いつしか死のイメージと強く結びついた。それからは写真を見ることも、もちろん撮られることも自然と避けるようになっていった。

 写真に対する忌避が解消されるきっかけになったのは、小学校の半ばから広島に暮らしはじめたことだ。ここで彼女は初めて転居と縁のない生活を送り、周囲の人々と少しずつ関係を深めるようになっていった。友達もできた。それまでは同じクラスで学ぶ生徒を他の人間と区別するために「友達」と呼ぶのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。世界に対する認識を新たにするにつれ、写真にも、幸福な記憶を保存するという効用があるらしいと気づいた。かつて写真を見るたび胸に兆した感情は、自分では意識していなかった、二度と再会できない人や場所に対する悲しみだったのだ。写真の中の人々にいつでも会えると理解して以来、広島での遠足や学芸会や運動会の写真を見ると顔がほころぶようになった。安心感、それが彼女の写真に対する意識を変えた。写真は死の象徴ではなくなった。

 小学五年生で友達の一人に誘われてアクターズステージに通うようになると、写真を撮られる意味も変化した。単なる記録という受動的な位置づけでなく、こんどは撮られることによって自分を表現するよう求められるようになったのだ。印画紙に焼き付けられた自分の姿は、普段とまったく違う様々な表情をまとっていた。食わず嫌いだったものを口にした途端、一転して大好物になってしまうようなもので、それ以来写真に対する関心は俄然高まった。


★  ★  ★


 相模湾を一望できる恋人の丘には、いつから始まったのか、フェンスにびっしりと南京錠が取り付けられている。ここを訪れたカップルが永遠の愛を誓って残していくということだ。潮風にさらされすっかり錆び付いたものもあり、それらを見るたび芦野は「まるで呪いだ」と思う。遊びの延長に近い気軽な行為なのだろうが、その気持ちの底に粘りつくような澱を感じてしまうのだ。いや、そんなことはない。自分も彼氏とここに来れば、きっと同じように錠を──「ありえんわあ」。慌てて芦野はその考えを打ち消した。そうだ、彼氏と一緒なら水族館に行こう、そのほうがずっといい。江ノ島は、デートコースにするには自分の内面に近すぎる。この場所を二人で歩ける相手がもし現れたとしたら、それこそ特別な人だろう。芦野はハートマークが描かれた南京錠にレンズを向けながら顔を赤らめた。
 妙な気分になったので恋人の丘を早々に退散する。知らず知らずのうちに、呪いに引き込まれていたようだ。

 岩屋参道へ戻り、さらに先へ進むと土産物屋や民宿が立ち並んでいる一帯に出る。この辺りは山二ツと呼ばれる、両側から海が大きく切れ込んでくびれた部分で、道のすぐ脇は目もくらむような崖だ。空中にいきなり出現する家並みには、いつも不思議な感覚を抱かざるを得ない。なぜわざわざこんな場所に町が作られたのだろう。この光景はペルーのマチュピチュに匹敵する世界遺産級のものだと、芦野の鼻息は意味もなく荒くなった。
 昭和の香りが漂う町の様子を、ああでもないこうでもないとファインダーで切り取りながらぶらつく。被写体にへばり付いている先入観を振り払うのは難しい。迂闊にレンズを向けると観光写真の出来損ないにしかならないのを今まで何度も経験しているし、考えすぎて他人に伝わらない写真になることもしばしばだ。未熟な写真は未熟な自分自身の反映だと判っているだけに悔しくてしょうがない。この衝動をそのまま形にできればいいのにと、じれったい気分がどんどん膨らんでしまう。

 ちょっと熱くなっとるわ──クールダウンした方がいい。芦野は石段を下り、展望台方面へとまた上りになる手前、中村屋本店の脇を東参道へと折れることにした。裏道とも呼ばれる、人通りの少ない静かな小道だ。道沿いに建物などはなく、木立の向こうに海を透かし見ることができる。木漏れ日と波の輝きがそれぞれの波長で共鳴し合って奏でられる、光のポリリズム。自分でも写真を撮ってみたいと思ったのは、こうした光が乱舞するかのような作品を創り出す女性写真家の存在を知ったからだ。


★  ★  ★


 インディーズデビューによって芸能活動を開始した芦野は、レンズを向けられることが日常となっていた。仕事がらみの姿は、ありとあらゆる場面が撮影されていると考えて間違いない。時を経るに従って慣れはしたものの、すこしばかり窮屈さを覚えはじめていたのも確かだった。

 そんなとき、たまたま雑誌で目にしたのが、その写真家の作品だ。それらは今まで見たこともない鮮やかな色彩に溢れていた。たちまち芦野を虜にした作品の数々は彼女にとって、知っているはずの色や形の概念を軽々と飛び越え、見知らぬ世界に誘ってくれる道路標識に思えた。その先に垣間見た景色を表現するのに、自分の乏しい語彙のなかから探し出したいちばん近い言葉は「自由」だ。
 自らの夢を実現するための活動である Black Perfume だが、それだけでは満たしきれない欲求の領域を、急速に写真が埋めはじめた。写真家の作品集を次々買い漁り、また彼女に関連する文献を探し回り、徐々に彼女の写真術や考え方に対する理解を深めた。周囲に向かっては彼女の作品がいかに素晴らしいかを唱え、自分でもそんな写真をいつか撮れたら、という夢を口にするようになった。あまりに写真だのカメラだのとうるさいので、西秋には「カメコ」などと言われたくらいだ。
 こうして写真家について調べているうち、芦野は彼女の愛用のカメラの値段を知り、愕然とした。「これは……無理じゃろ」。到底自分の購える金額ではない。加えてフィルム代やDPE料金も決して無視できるレベルではなく、高校生の自分には重過ぎる負担だ。冷厳な現実に直面し、芦野の気持ちは萎えかけた。

 しかし希望もところ構わず言ってみるものだ。やがてファンの一人が芦野の声に応えて本格的な一眼レフのカメラを彼女に贈った。16歳のバースディプレゼントだった。写真家が愛用する機種とは違うけれども、どう見ても安くはあるまい。さすがにこんな高価なプレゼントを貰うわけにはいかないと固辞したが、そのファン自身も写真を生業としていて、仕事上で不用になった手持ちの品だから構わないと言う。実際に触れるカメラの魅力は想像以上で、申し訳ないと思いつつも結局ありがたく頂戴してしまった。
 信じられない気分のまま自室に戻り、もう一度まじまじとカメラを見ているうちに、じわじわと喜びがこみ上げてきた。手のなかで何度もひっくり返し、あちこちにレンズを向けてファインダーを覗き込んだ。シャッターボタンを押すとカシャンと軽やかな音がした。冬の冷たい朝、そろそろと霜柱を踏みしだいたような繊細で透き通ったあの音を、芦野は一生忘れないだろう。


★  ★  ★


 たまにすれ違う人たちに会釈して道を譲り、芦野はゆっくりと東参道の坂道を下る。喧噪から離れると、空気はそれまでと違う香りをまとい、肺のすみずみまで滲みわたる気がする。
 歩きながら、あの写真家のような輝く色彩を捕まえようと、ときどき背伸びをしたり、思い切り屈んでみたり、さまざまな視点を試してみる。人から見たら妙な行動だろうが、カメラを持ったときの彼女は意に介さない。一種信念めいたものに後押しされ、普段は見せない積極性が顔を出すのだ。

 枯れ枝、苔、蜘蛛の巣、石畳、落ち葉、橋の欄干、ごつごつした樹の幹、石ころ、遠く微かに浮かぶ富士山。芦野のアンテナに、様々なものが反応する。
 だが、なかなかシャッターを切るまでには至らない。ふだん使いのコンパクトデジカメや、さらに気軽なケータイの写メに比べ、フィルムに光を焼き付ける行為には気後れしてしまう。一発勝負の緊張感に耐えきれずに勇み足を踏んでしまったり、チャンスを逃したりすることもたびたびだ。そんなとき、まだまだカメラに負けているなと、しみじみ感じるのだった。それでもここぞという時には、フィルム式の一眼カメラに限ると芦野は思っている。
 正直、ラティチュードだの粒状性だの細かいことはよく判らない。しかし光線を紙に定着するプロセスにフィルムを媒介させると、光がより直接的な形で物質化される気がしていた。ただ、それは芦野がデジタルデータを信用できない、古いタイプの人間であるせいかも知れない。操作ミスで何十枚もの画像をデジカメから削除してしまったことも、一度ならずあった。フィルムを巻き戻さないままカメラの裏蓋を開けるという失敗も、同じく経験済みだったが。

 坂道を下るにつれ、風や波、小鳥のさえずりに混じって、遠く観光客の喧噪が聞こえてきた。浮世離れした天空の仙境から、人間の世界に舞い戻ったのを感じる。ここまでにしておこう。芦野はレンズにキャップをかぶせ、カメラをバッグにしまった。
 人々で賑わう参道は活気に満ちていた。いつもなら、ぶらぶら店を冷やかしたりするのだが、今日は気乗りがしない。どうやら相当忙しくなりそうな、間もなく始まる新譜の販促キャンペーンに対する重圧がのしかかっているようだ。現実に引き戻されて急速に縮んでゆく気分から逃げるように、芦野は足早に弁天橋を目指した。


★  ★  ★


 ようやく雑踏を抜けた橋の上ではまともに冬の風が吹き付ける。冷たさに肩をすくませながら海岸に目をやると、まばらなサーファーたちから少し離れて、真っ直ぐに沖を見つめる日傘を差した女性が見えた。一瞬、時が止まった。この寒さにそぐわない、周囲からぽっかりと浮き上がったような光景が芦野の興味を引いた。彼女を撮ってみたい。突然降って湧いたその衝動に芦野自身が驚いた。人物を見てそんな風に感じるなんて。
 芦野は急いで橋のたもとから海岸へ下りて女性の背後に回り、ちょうど逆光になる位置で足を止めた。思ったとおり、この角度からだと完璧な構図だ。はやる気持ちを抑えて、あらためて女性をじっくり観察する。歳の頃は40前後だろうか、母親と同年輩に見える。白い服が青い影を落とし、日傘と相まってモネの絵画を思わせる。うっとりするほど美しい景色だ。

 一旦カメラを取り出そうとしたものの、バッグを開けようとした手が止まる。いや、やっぱり無理じゃ。撮らせてくださいなんて、とても言えんし……。それでもあきらめきれない気持ちは、芦野にケータイを掲げさせた。気づかれないように撮ったつもりが、電子音は思いのほか澄んだ音色で辺りに響きわたった。不思議そうな顔で女性が振り返った。芦野と女性の視線が交錯し、芦野は硬直した。しまった、ケータイを構えたままだ。えーと、何か言わんと……。

「す、すいません! あの、あの……」
「写真? 私を撮ったのかしら」
 女性は驚いたように芦野に問いかけたが、その声は穏やかで優しかった。
「あ、はい。あの、海を見ている姿が綺麗だったんで、つい。ごめんなさい」
「私みたいなおばさんが? 海の方がよほど綺麗でしょう」
 女性は鈴を鳴らすように小さく笑った。聞く人の気持ちを安らかにさせる笑い声だ。この人なら大丈夫かも知れない。芦野は思い切って言ってみた。
「勝手に写真撮ってすみません。それであの、あつかましいんですけど」
「何かしら」
「えーと、改めて写真を撮らせてもらえませんか、ちゃんとしたカメラで」
 口にして後悔したがもう遅い。女性は笑顔を畳み、じっと芦野を見つめた。やがて、女性は頬を緩めて言った。
「いいわ。撮ってくださいな、私なんかでよければ」
「ありがとうございます!」
 芦野はぱっと顔を輝かせ、慌ててカメラをバッグから取り出した。

 知らない人に声を掛けて写真を撮るなんて、初めての体験だ。それどころか事件と呼びたいくらいだと、芦野は思った。最初はおずおずと、しかしすぐに夢中になってシャッターを切っていった。ファインダーの中で女性と海は、一幅の絵のような儚い美しさを湛えていた。女性は海を眺めたまま、芦野に話し掛けた。
「あなた、いくつ?」
「18歳になりました」
「高校生ね。写真の勉強しているの?」
「あ、いえ。これはただの趣味ですけど」
「そう。好きなものがあるって素敵ね」
 女性は言葉をきり、短い沈黙を挟んで続けた。
「私の娘は、いったい何を好きになったかしら」
「ああ、お嬢さんが。まだ小さいんですか」
「あなたと同じくらいの歳よ……」
 女性は芦野に視線を移しながら言った。
「……死んじゃったんだけど」

 シャッターボタンにかけた芦野の手が止まった。カメラを下ろして女性に尋ねる。
「亡くなられたんですか」
「ええ、もうずっと昔の話。あの子が小学校のときだから」
「ご病気とか?」
 女性はふたたび海へ顔を向けた。
「事故よ。この海岸で」
 ほうじゃけ海を眺めとったんか。女性が身にまとっていた雰囲気は、深い悲しみのせいなのだと、芦野は納得した。何を話したらいいのか芦野は思案に暮れた。黙りこくった芦野にはっとして、女性は気まずい空気を振り払うように明るい声で言った。
「ああ、ごめんなさいね、こんな話をして」
「いえ。私こそ大事な時間を邪魔してすみませんでした」
「いいのよ。毎日なの、ここへ来るのは。ただの習慣」
「毎日、ですか?」
「そう。あの子と会えなくなってから毎日」
「そんなに長い間、ずっと」
「でもまるで昨日のことのよう。時間が止まっているみたいだわ」
 それきり女性と芦野は押し黙ったまま、夕日にきらきら光る海を見つめ続けた。波音だけがふたりを包んだ。


★  ★  ★


 帰りの電車で芦野は思いついた。そうだ、今日のブログに江ノ島のことを書いておこう。カメラをプレゼントしてくれたファンにも、写真を続けていることを知らせたいし。芦野は手慣れた調子でケータイに文章を入力し、ちょっと迷ってから、最初に海岸で女性を撮った写メを添付して松本に送信した。彼女は小さくしか写っていないし顔は見えない。大丈夫だろう、使わせてください。芦野は心の中で頭を下げた。こうしてメンバーそれぞれが送ったメールの内容を松本がチェックして、いや、ほとんどチェックなどしないのだが、その後ブログを更新してくれるのだった。

 別れ際に女性は言っていた。「夢をあきらめないでね」と。本当はその機会もなく逝ってしまった、彼女自身の娘に伝えたかった言葉なのだろう。夢か。いま自分がいちばんに追いかけている夢は、やはりBPだ。どこまで行けるのかまったく先は見えないけれど、三人でいる限り大丈夫だと、根拠のない自信がある。
 海岸での彼女の問いかけを思い出す。
「なぜ写真を撮ってもらったかわかる?」
 首を傾げる芦野に、彼女は優しく微笑んでこう答えた。
「あなた、笑顔がちょっと娘に似てるのよ」
 なぜか、頑張らなくちゃ、という気持ちが胸に湧き上がってきた。
 電車が、間もなく寮のある最寄り駅につくという頃、ケータイがバイブで着信を知らせた。見ると、松本からの返信だった。芦野はメールを開いた。本人の寡黙さとは裏腹に、松本のメールは底抜けに軽薄だ。

『メール受け取ったよ~ん♪
 文章は問題ないけど写真はボツ。
 なんでも構わないから何か写ってるのにしてね!
 んじゃ待ってま~す』

 何を言っとるんかいね、この人は。ちゃんとかっこいい写メを送ったじゃろう。芦野はちょっとプリプリしながら返信しようとして、先ほど送信した自分のメールを確認した。ほら、こんなに綺麗に撮れて……。
 写メには海と、中途半端に見切れた江ノ島が、もやもやとブレたように写っているだけだった。あれどうして? う~んと、ワかにゃい! そんなはずないのに。写真フォルダを開いて他の画像も確認してみた。ない。あの女性が写っているはずの、たった一枚の写メが。芦野は鮮烈な記憶となっているあの光景を頭に思い描き、ふいに不自然な点に気づいた。そういえば。
 日傘。いくら晴れていても、冬に日傘なんて。それにあの服装。どう考えても冬には寒すぎる。もしかすると、彼女のまとっていた儚げな様子は悲しみのせいではなく……そして死んだのは娘ではなく……。そうか、人間を撮るのが苦手な自分に、安心してシャッターが押せたのは……。

 首筋を冷たい風が吹き抜け、芦野はぶるっと身体を震わせた。しかし、それは嫌な印象ではなく、慈しむような感触だ。誰かに斜め上からやさしく見下ろされている気がした。励まされている感覚がじんわりと伝わってくる。「夢をあきらめないでね」。
 芦野は斜め上に、娘に似ていると言われた笑顔を向け、彼女とかわした最後の言葉を繰り返した。

「あきらめません。絶対に」

 見えない誰かが芦野のおでこを撫でた。ほんのり潮の香りがした。


〈 終 〉



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【2007/12/02 14:15】 | あばれ旅SS
Black Perfume
あばれ旅


花の東京で天下を取れ! 大木黒綾ノ、西秋黒文香、芦野黒優香。広島出身のBP三人娘が繰り広げる、愛と涙の大冒険。

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pinksun

Author:pinksun
※このストーリーはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです。
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