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目 次
BCCKS版

BLACK PERFUME あばれ旅 上巻

BLACK PERFUME あばれ旅 全SS

BLACK PERFUME あばれ旅 SS3


FC2BLOG版

BP01 黒く甘い香り

BP02 広島死闘編

BP03 スズメバチの午後

BP04 亀戸電撃作戦

BP05 時計じかけのアレンジ

BP06 失われた時を止めて

BP07 長い髪の男

BP08 御宅の紋章

BP09 狂い咲きセンターロード

BP10 風雲!秋葉ヶ原

BP11 三人娘捕物控

BP12 星くず姉弟の伝説

BP13 電気街の幻影

BP14 復活の刻

BP15 〈最終回〉ラストノート


BPサイドストーリー

BPSS01 ある晴れた日の午後

BPSS02 おトトの花道

BPSS03 海辺のアルバム

BPSS04 ナナの天国

BPSS05 天国にいちばん近い湯島


コメント・メールは以下へ
亀戸サンデーストリート イベント広場
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【2010/10/21 09:20】 | あばれ旅
BPSS05 天国にいちばん近い湯島
 ああ、これは無理じゃのう──大木は西郷さんを見上げながら嘆息した。
 大木はブログに掲載するため西郷隆盛像とのツーショットを撮影しようともくろんでいたのだが、まさか実際の銅像がこんなに大きいものとは考えてもみなかった。
 渋谷のハチ公を見習いんさい、あれくらいの高さなら記念写真撮り放題じゃ。そこんとこ西郷さんはわかっとらん。それにアレじゃ、そもそもどうして上野におるんじゃろう。公園で犬でも散歩させとったんか。
 どんどん文句が湧いて出てくる。自分が初めてハチ公を見たとき、その小ささに驚いたことも忘れている。場所はよく知られているのに、こんなサイズでは待ち合わせに不便じゃろう。それどころか、上京するまでは西郷さんの連れている犬がハチ公だと思い込んでいたのだった。地方に住む子供の東京に関する知識とは、かようにあやふやなものだ。
 しかたない、ここでの写真はあきらめて本来の目的地に向かうとしよう。大木は気を取り直して公園の階段を下った。


★  ★  ★


 マネージャーの松本からブログを始めると告げられたとき、大木は困惑した。日記もろくにつけたことがないのに、何を書いたらええんじゃ。いや、書くべきことがはっきりしておるアサガオの観察日記でさえ双葉までしか続かんかったぞ。とても自慢するようなことではないのだが、大木は偉そうに松本に詰問した。松本はぼそりと「なんでも」と答えるだけだった。いつものことながら、ちゃんとした答えが返ってきたためしはない。
 松本に頼ることは無理そうじゃ。しかし、やるからにはきっちりせにゃいかん。基本的に大木は生真面目なのだ。まずは敵を知る必要があると、大木は寮のパソコンに向かい、手当り次第ブログを閲覧していった。ウェブサービスを使ったいわゆる日記サイトに始まり各種乱立するブログ専用サイト、そして個人でツールを利用して開設しているものまで形式も、当然のことながらその内容も多岐にわたっており、たしかに松本の言ったとおり「なんでも」ありだ。だが、その中にもいくつかの傾向は見てとれた。
 政治やら世間の出来事やらに関してひと言もの申すもの、これはそれなりの見識がないと単なる文句になりがちで、だいいち詰まらない。却下。子供やペットなどの写真を載せてその可愛さを自慢するもの。どっちもいないしわざわざネットで自慢とか鼻持ちならない。却下。旅先のあれこれを紹介するガイド的なもの。旅行はしません。却下。読んだ小説や漫画の感想。感想など書く暇があるなら別のものをもっと読みたい。却下。映画の感想。感想を書く暇が以下同様却下。そのほか日々感じたことあれこれ。あーもうそんなもん自分の日記に書いといたらええんじゃ──あ、日記みたいなもんじゃけえ、ええのか。

 どうも関係ない人たちの膨大な発言の海を漂っていると、いらいらが募ってくる。こりゃあ、わしには向いとらんわい。ぽちぽちリンクをクリックするのにも飽きてきたころ、ひとつのブログに目が止まった。それは、店頭で売られている持ち帰り用の「あんみつ」を綿密に比較した記録だった。例えばあるコンビニに置かれた「あんみつ」については、こう記されている。

 ○月○日「○○樓」368円
 購入店:セ○ンイレ○ン○○店(○○4丁目)
 あん:つぶあん 寒天:80g 赤豌豆:7粒
 トッピング:白桃、黄桃、みかん、
 パイナップル、さくらんぼ×各1
 持ち帰り用としては珍しいつぶあん。甘さは程よ
 く上品。フルーツが多めで華やかだが、寒天が少
 ないため食感が物足りない。店頭での見栄えを重
 した結果と思われる。価格が若干高めなのはブラ
 ンド料が加味されているためか。

 こうした分析に加えて全体写真および具材をそれぞれ個別に撮影した写真も掲載されている、他に例を見ない一大データベースであった。なるほど。
「あんみつ」が好きなわけではないが、大木はこのブログにいたく感銘を受けた。そう、自分にも好きで好きでたまらないものがあるではないか。
 その名前を口にするだけで、口腔には唾液が溢れて受け入れ態勢に入ってしまう。その香りが鼻孔をくすぐれば足は勝手にそちらの方へ向かってしまう。もしも裁判でこれから一生それを食べ続けるべしと判決が下れば、喜んで刑に服することだろう。いや、そのためにわざわざ罪を犯しさえするかもしれない。大木が愛してやまない食べ物──それはカレーだった。

 BLACK PERFUMEの成功を目指して上京するとき、大木にはもうひとつの夢があった。名だたる名店がひしめく東京で、思う存分カレーの食べ歩きをすることである。しかしいざ東京で暮らし始めると、毎日の厳しいレッスンと学校、さらにはイベント出演やライブなど、その忙しさは層状以上で、いつしかささやかな希望さえ叶えられる機会を失っていた。そしていま、置き去りにされていた思いがむくむくと頭をもたげはじめた。わしがブログをやるなら、これじゃろう!
 少し考えれば、あまりにもポピュラーな食べ物であるカレーに関して他にブログが作られていないわけがないのだが、もはやそんなことは関係ない。ブログはすでに大木が自身の欲望を満たすための単なる口実だった。
 大木はYS-TK 7型の助けを借りて、カレー専門店のみならず洋食店、喫茶店、フードコート、そばうどん店に至るまで、カレーファンが訪問すべき店を探索していった。リストアップされた店舗は膨大な数に上り、大木としてはすべてを食べ尽くしたいところだったが、当然のことながらそれは不可能である。大木と7型はそのなかからあらゆる条件で店舗を絞り込み、リストを磨き上げていった。

 ふふふ、これだけあれば数年分のブログネタは確保したも同然じゃ。大木は満面の笑みを浮かべて完成したリストを眺めた。さて、最初に訪問するのはどこにしようか。

★  ★  ★

 上野公園を出て、中央通りを広小路に向かって歩く。その先にはなじみ深い秋葉原がある。大木は、ストリートライブの下見で初めて訪れて以来、何度も繰り返し足を運び、その頃の生活の一部となっていた秋葉原での日々を懐かしく思い出した。
 あれはえらいカルチャーショックじゃったのう。碇に連れられて歩き回る先々で出会うものすべてが目新しく驚きに満ちていた。あらゆるハード、ソフトを取り揃えた店舗がひしめきあい、そのどれもが凄まじい音と光の情報量で人々を誘惑する町並みは独特で、ここに似た場所は世界中探しても二つとないだろう。二次元と電脳世界と現実が交差する特異点として存在するバーチャルな町だ。温かいおでんが食べられる自販機にも驚いたものだったが。
 そして歩行者天国で何度も行ないBPの名を世間に知らしめたストリートライブと、三人の絆をいっそう深いものにした逃走劇。そう、いままさに歩いているこの道こそ、あの現場へと続いているはずだ。BPを新しいステージに引き上げてくれた町に、またいつか帰ることがあるのだろうか。いやはや、思えば斜め上の展開続きでずいぶん遠くまで来てしまったのう。

 あれこれ思いを巡らすうち上野広小路交差点に差しかかり右に折れると、ほどなく全身がスパイスの香りに包まれた。一瞬陶然として大木の足下がふらついた。あぶないあぶない。あわてて体勢を整え辺りを見回す。これは……近い! 近いも何もすぐ右手に、黒い地に鮮やかな黄で染めた店名が掲げてあるのが目に入った。
 これか。胸の奥に期待とも緊張ともつかない固まりが生まれたのを感じる。ここから、わしのもうひとつの夢が始まるんじゃ。いささか大げさではあるが、それが大木の偽らざる気持ちだった。店の前で大きくひとつ深呼吸して、大木はドアに手を伸ばした。
 やるかやられるか……勝負じゃ! 興奮しすぎて何かを勘違いしながら、大木はガラス戸を引き開け、歩道から一段高くなった店内へと足を踏み入れる。入り口のレジ前にいた店員が大木に向かって「いらっしゃいませ」と言った。

 カレーファンなら知らぬものはないほどの有名店だが、店内は想像以上に狭かった。右手にはカウンター、狭い通路をはさんで左手に二人掛けの小さなテーブルが四つだけ。二十人も入ったら満員になるだろう。内装はいたってシンプルで、インド料理店にありがちな過剰な装飾は見られない。アイボリーの壁にカウンターとテーブルの黒がきりりと締まった印象を与える。昼時はとうに過ぎて客はまばらだ。
 店員にお好きな席へどうぞと促されるまま、いちばん奥まで歩を進める。テーブル席に座ってもまったく構わない状況とはいえ、ひとりで複数の席を占有するのは気がとがめて、大木はカウンターの隅に腰を下ろした。基本的に大木は生真面目である。
 顔を上げるとすぐ目の前は厨房だ。中では二人の浅黒い料理人が立ち働いていた。「あ……」大木はびくりとして大きな目をさらに大きく見開き心の中で叫んだ。「イ、インド人じゃ……!」そのひとりがふと顔をこちらに向け「イラシャイマセ」とにっこり笑った。「あ、はい……。ど、ども……」大木はどぎまぎして視線を落とした。頭の中では「インド人、インド人……」と同じ言葉がぐるぐる回っている。むむ、さすが老舗じゃ、あなどれんわい。カレー好きを公言している割に、大木はインド人コックを見たのは初めてだった。
 さきほど出迎えてくれた店員がコップの水を置きながら、カウンターに置かれたメニューを指し示して言った。
「お決まりになりましたらお呼びください」
「あ、はい」大木はメニューを手に取り開いた。カレーの種類はさほど多くないものの、店の名前を冠した看板メニューをはじめ、それぞれ歴史に磨き上げられた逸品であるとの評判だ。しかし下調べは万全である。大木はすでに何を注文するか心に決めていた。
「あの……」店員を呼ぼうと顔を上げると、厨房のインド人コックとまたしても目が合ってしまった。
「えと、カシミールを……」大木の注文にコックはにっこり笑って「アリガトゴジャマス」と答えた。大木はぎこちない笑顔を返し、また視線を落とした。鼓動が速く、多く打つ。インド人、インド人……。

 カシミールはこの店でも最も有名で、同時に最も辛いカレーだ。7型とともにカレー店を探索している最中にも幾度となくお目にかかった名前である。実際店を訪れた人々のレポートを見ると、最大級の賛辞を贈る表現が並ぶ。いわく劇的な味、いわく奇跡の味、いわく天国の味などなど。はじめて口にした者は一様に衝撃を受け、たちまち虜になってしまうらしい。なかにはその魅力を悪魔の味と記すページもあった。数多のカレーを食べ尽くしたであろう通人たちが愛してやまない味とは一体どんなものなのか、試さないわけにはいかない。大木は迷いなくブログ第一回目を飾る一皿にこのカレーを選んだ。その逸品といよいよ相まみえることができるのだ。

「お待たせしました」
 カウンターに店名入りの紙ナプキンが敷かれてスプーンとレードルが並べられ、つづいて皿に平たく整えられたライスが置かれる。そして、使い込んだステンレスのベーカー皿に注がれたそれがしずしずと差し出された。「こちらカシミールです」

 黒い……。一見して大木はそう思った。カレーを特徴づけるターメリックの黄色とはまったく違う、深い褐色のソースがシーリングライトの輝きを映している。その表面はあくまでも静かで、深山に抱かれる湖を思い起こさせた。そして水面から小島のように顔を出しているのは鶏の腿肉とジャガイモだ。ひたすら静謐なソースに比べ、それらはぬらぬらとした官能的な輝きで大木を誘っていた。大木は一幅の絵のような光景にしばし見とれていたが、はっとして気を取り直した。いかんいかん、悪魔とはよく言ったもんじゃ。食べる前から取り込まれるところじゃったわい。
 居ずまいを正してレードルを手にしたものの、皿からカレーを掬おうとしたところで躊躇して動きが止まる。この静まり返った湖面を乱していいものだろうか。なぜか後ろめたさを感じながら、大木は意を決してレードルをソースに沈めた。

 掬い上げたソースを、静かにライスへまわしかける。乾いた平原に恵みの雨が降り注ぐように、ソースはいささかもよどみなく、あっという間にライスの隙間を縫ってしみ込んでいった。これは……まるでスープのようじゃな。米粒のひとつひとつにはソースが通り過ぎていった名残のスパイスが点々とまとわりついている。
 レードルをスプーンに持ち替え、ひとさじ分のライスとソースをよく混ぜる。スプーンの上でライスとソースが分離したまま口にする人がいるが、それは邪道だ。両者は渾然一体となってこそひとつの料理として完成される。それが、大木のカレーに対する信条だ。初めてのカレーと出会ったとき、ライスとソースを念入りに混ぜ合わせるのは大木にとって祈りを捧げるのに等しい。儀式を済ませてようやくカレーそのものを味わう至福のときへと至るのだ。大木はスプーンの先端にほんのわずかのカレー、すなわちライスとソースがまんべんなく配合されたそれをのせ、口元へと運んだ。

 カシミールを口に含んだ瞬間、喉から鼻へと一陣の風が吹き抜け、気が遠くなった。大木はインドの赤い砂漠を渡る風の音を耳の奥で聞いた。続いて、その彼方から砂塵を巻き上げてラクダの大群が押し寄せるように、刺激が地響きをたてて襲ってきた。熱い! 薄れゆく意識の中で大木が感じたのは、絶対的な熱さだった。そういえば、英語では熱さも辛さもhotと表現するんじゃったかのう、なるほどこれは同じ感覚じゃわい。店のカウンターでカレーにおおいかぶさっている自分の姿を天井から見下ろしながら、大木の魂はぼんやりと考えていた。
 最初の一口でカシミールは大木を翻弄した。もはやそれは、味覚を超える体験だった。

 突如全身から汗が噴き出し大木は我にかえった。ああ今わしはカシミールを食べよるんじゃ。宙に止まったままのスプーンを動かし、二さじ、三さじとカレーを口に運ぶ。だんだん意識がはっきりしてきた。ああ、カレーじゃ、わしは今カレーを食べておる。汗に濡れた顔は真っ赤に火照り額に髪が張りついている。
 大木はスプーンをレードルに持ち替え追加のソースを掬いとろうとしたが、ふと手を止め、ベーカー皿を両手で持ち上げライスの上でいきなりひっくり返した。
 カシミール地方を洪水が襲った。いや、大地がカシミールに呑まれた。血走った目でライスとソースをかき混ぜる大木は、地獄の釜で罪人を責め苛む赤鬼の形相をしていた。

 そしてカレーを食べる。食べる。食べる。口の中の辛さが次の辛さを求めて手の動きをせき立てる。食べる。食べる。食べる。さあもっと。ほろほろと煮込まれた鶏肉をスプーンで突き崩して食べる。滋味が広がり、雲間から光が射すようだ。そして食べる。食べる。食べる。汗は首筋を、胸元を、腋を伝い、流れとなっている。食べる。食べる。食べる。もっともっと。最初は舌を焼いた熱が、いまは胃の入り口あたりで燃え盛る炎となっている。食べる。食べる。食べる。大きなジャガイモを二つに割って頬張る。休憩の機会を与えられた舌が、ジャガイモの甘さを感じる。食べる。食べる。食べる。もっともっともっと。スプーンは疲れを知らぬ建設機械のように、カレーを掘り、持ち上げ、運ぶ。一方、大木もまた、食べる機械と化していた。食べる。食べる。食べる。そして食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる………。

 雨にぬかるんだ轍のような褐色のいく筋かだけを残し、いつしか皿はすっかり空っぽになっていた。大木は深いため息をついて白い皿の表面を眺めた。
 華々しい具材にもりたてられた口当たりのよいカレーが光の世界の代表ならば、このカシミールは暗黒の使者かもしれない。悪魔の味とはよくぞ言ったものだ。抜けるような青空とは、実は強い光と厚い大気によって本来そこにあるはずの星空が覆い隠されている状態である。暗黒にきらめく星々の世界こそが本当の空なのだ。大木はそんな深淵のような空をかいま見た気がした。


★  ★  ★


 放心状態で町を歩く大木の頬に冷たい夜風が当たる。たっぷりかいた汗が体表から熱を奪い背筋を震わせる。さっきまであんなに熱かったのにのう。大木はジャケットの襟を立てた。

 しかし世の中にあんなカレーがあろうとは、まことカレーの世界は奥深いもんじゃ。カシミールとの邂逅を思い出しつつ、駅へと歩を進める。あの体験はいったい何じゃったんかいな、果たして人に話してもわかってもらえるのかどうか。自分自身でさえ感情の整理はまだできていないし、それを伝える言葉も見つからない。とにかくこの感覚を持ち帰り、落ち着いてからじっくりブログの文章を……ブログの……ブログ?
 大木は歩道の真ん中でいきなり立ち止まった。家路を急ぐ人々が大木を避けて流れていく。

 写真……撮ってない……。

 最初にカレーが供されたとき撮っておくべき写真を、大木は緊張のあまり忘れていた。もちろん食べはじめてからでは、そんなことに気が回るはずもない。うわあしもうた、必ず写真は付けるよう言われておったのに。では、いっそのこと文章だけで……いやいや、それは自分自身、納得がいかん。このカレーブログは完璧でなくてはならんのじゃ。あくまで大木は生真面目だった。じゃあ、じゃあ……解決策はこれしかなかろう!
 大木は顔を上げ、踵を返して早足で歩き出した。店へと戻り、勢いよくガラス戸を引き開け弾む声で言った。

「カシミール、おかわりください!」
【2010/10/20 14:30】 | あばれ旅SS
BPSS04 ナナの天国
 やっとのことで重いまぶたを持ち上げると、目の前には一面に薄いブルーがぼんやりと広がるばかりだった。ここはどこだろう? ふわふわした頭で記憶を辿ってみたが、あちこちで時間のつながりが断ち切られていて、いま自分がどんな状況にあるのかわからない。ただ鼻腔を満たしているのはなじみ深いわたし自身の匂いだ。それでわたしが自分の青い毛布に横たわっていることがおぼろげながら理解できた。半身を預けているはずの毛布の感触さえよくわからないなか、ただひとつ確かなこの匂いはひとしお懐かしく感じられる。

 とても体が重いけれど、ちょっと前までお腹のあたりにあった痛みは感じなくなって、少しは気分が楽だ。家の中は静かで物音ひとつしない。でも、それは耳があまり聞こえなくなったせいかもしれない。どんどん世界が遠ざかり、ぽつんと取り残されていくようだ。いったいどれほどの時間こうしていたのだったか、そんな寂しさにも少しずつ慣れてきた。いや、かえって一人でいた方が落ち着ける気もする。誰かと一緒にいるのがあんなに好きだったわたしが、孤独を好むようになるなんて。

 そうだ、この静けさは、まだ小さかった頃一人で留守番をさせられた感じに似ている。家族全員が外へ出て玄関に鍵のかかる音がすると、このまま誰とも二度と会えなくなるのだという思いで頭がいっぱいになり、悲しいとか怖いとか、そんな言葉で片付けられないほどの冷たさが尻尾から背を貫いてぶるると身を震わせ、喉が潰れるくらいに吠え続けたものだった。それくらい孤独を恐れていたのに。
 永遠に続く夜に閉じ込められ心も固く凍りそうになる頃、再び玄関の鍵を回す音が聞こえ、闇を裂いて光と暖かさがよみがえる。そしてあの声が聞こえるのだ。「ただいま」と。
 もちろん何日も放置されているわけではなく、ほんの数時間の留守番に過ぎない。でもあの寂しさは本物だったし、帰ってきて真っ先に声をかけてくれ、両手で抱きしめ首筋に顔を埋めて頬ずりしてくれるお姉ちゃんは、わたしにとって世界でいちばんの存在だった。そういえば、あの声を長いこと聞いていない。いったい、どれくらいの時間が経っているのだろう。

 静けさに誘われて、一度ははっきりしかけた意識も形をとどめられず、また緩やかに流れ出していった。


★  ★  ★


 この家に男の子が産まれた頃、私はもらわれてきたそうだ。自分もまだ小さかったので、もちろん覚えてはいない。その男の子──坊っちゃんとわたしは兄妹のように育てられた。妹というのは、わたしが少しだけ後に産まれたからだ。でもわたしの方が成長が早かったので、どうしても自分を年上と考えてしまう。なにしろ、もっとも古い記憶の中で坊っちゃんはまだ赤ん坊なのだ。わたしは坊っちゃんを世話するつもりで一所懸命顔を舐めていたのだが、汚れるからやめんさい、とお姉ちゃんに止められたのだった。お姉ちゃんは、わたしと坊っちゃんのふたりの姉で、この家の長女だ。わたしは、このお姉ちゃんが大好きだった。一家は爺さま婆さまとお父つぁん、おっ母さん、お姉ちゃん、坊っちゃん、そしてわたし。
 七番目の家族という意味で、わたしはナナと名付けられた。

 毎日わたしを散歩に連れて行ってくれるのはお姉ちゃんの役目だった。散歩は一番の楽しみだ。日が傾いてくると、体の奥に熱い疼きが芽生える。胸の時計がきりきり巻かれ、弾けそうになるのを察するかのように、お姉ちゃんが「そろそろ行こうか」と声をかけてくれる。その嬉しさに思わずわんと声を漏らすこともあり、するとお姉ちゃんは目に力を込めて「だめ」とわたしを叱る。はっと気づいて、しまった、と尻尾を丸め居ずまいを正すと、お姉ちゃんは頬をゆるめて「そう。わかりんさった? いい子じゃね」と首輪に引き綱をつけてくれる。いよいよやってきたその瞬間に喜びは最高潮に達し、綱も切れそうな勢いで戸外へ飛び出す。この気持ちを伝えたくて振り返るとお姉ちゃんも微笑んでいて、さらにわたしの嬉しさは増すのだった。

 家は宅地開発の波がまだ及ばない山沿いの斜面に建っており、点在する雑木林が里山の面影を残していた。アスファルトに覆われていない生の地面が多いので、散歩にはうってつけだ。肉球に伝わるひんやりと湿った土の感触は一歩一歩が新鮮でいとおしい。つい全身を投げ出して転がり回りたくなるが、それをやるとまたお姉ちゃんに叱られてしまうので我慢する。
 木の根元や草むらなど、あちこちから立ちのぼる匂いを、わたしはひとつひとつ確認していく。お姉ちゃんは気長に待っていてくれて、決して急かしたりはしない。わたしにとっては匂いが重要なことを知っているからだ。匂いには、誰がいつ通ったか、変わった出来事はないかなど、さまざまな情報が詰まっている。大切な人からの手紙を読むかのようにじっくりと匂いの行間を味わうのだ。
 それはまた季節が移り変わる兆しも教えてくれる。

 秋は枯草を踏みしめるのが気持ちいい。かさこそと乾いた音が耳をくすぐる。吹きだまった枯葉の下に何があるのか、掘ってみたくなる。冬は一面真っ白でまだ誰も歩いていない原っぱに一番乗りをして足跡を付ける。最初は冷たい足先が、じんじんと熱く感じられてくる。おしっこをすると雪が黄色く染まるのも面白い。春は桜の下を歩く。舞い散る花びらを追って飛びついたりする。あらゆる匂いが一斉に解き放たれるのもこの季節だ。
 どの季節の散歩もすばらしいが、とくに好きだったのは夏の夕暮れだ。昼間の暑さはやわらぎ田んぼを渡って涼しい風が吹いてくる。頭上から降り注ぐひぐらしの声に包まれて、赤く染まり始めた空を眺めながらわたしとお姉ちゃんの二人だけでゆっくり歩く。お姉ちゃんは、よく得意の歌も聴かせてくれた。その柔らかな声にうっとりとして、このままいつまでも聴いていたいと思ったものだ。夏は本当にいい。
 そうだ、夏にはお祭りもやってきた。

 町のはずれにある小さな神社で行われる祭は、この町の人々には大きな楽しみだった。わたしにとっての散歩のように待ち遠しいものだが、それは年にたった一度きりなのだ。どれほど大切な行事かわかるだろう。
 祭が近づくと町全体の匂いがいつもと全く違ったものに変わってくる。何日も前から人々は仕事もそこそこに祭の準備に精を出す。集会所では太鼓や笛が埃を払われて御囃子の練習が開始され、その音がさらに祭への期待感を大きなものにする。
 境内にやぐらが建てられ提灯が鈴なりに掲げられるといよいよ祭の本番だ。宵闇が訪れるとともに参道に並んだ夜店に電灯が輝き、赤や青や黄色の原色に彩られた幟が鮮やかに浮かび上がる。人々が集まり始めるとざわめきや下駄の音が谷川のせせらぎのように響く。暖色の灯に照らされてみな笑っている。これほど多くの人間がすべて笑顔でいるなんて、祭のとき以外には見たことがない。
 お面売りや金魚すくいなどはいいのだが、夜店の半分は食べ物を扱っているので刺激が強い。焼きそばソースやイカ焼きの醤油が焦げた匂いには、くらくらしてしまう。鈴の形をしたカステラから漂う粉と砂糖を焼いた匂いにうっとり目を細めていると、「ちょっとだけね」とお姉ちゃんがひとかけのカステラを差し出してくれた。嬉しくてあっという間にたいらげてしまうのだが、また来年までお目にかかれないことを思い出し、ちょっと残念な気分になる。これも毎度のことだ。
 やがてやぐらの上から御囃子が流れ出し盆踊りがはじまる。待ってましたとばかり人々は幾重もの輪になって夜通し踊り続けるのだった。祭はいい。楽しみがたっぷり詰まっている。

 でもある年の祭の夜だけは、いまだに心に引っかかっている。爺さま、お父つぁん、おっ母さんは慌ただしく外に出かけて、しんとした家にいるのは婆さまとお姉ちゃんだけだった。そして、あのとき坊ちゃんはどうしていたのだったか。ほどなく家族全員が揃っていつもの風景に戻ったので、はっきり覚えてはいないけど、あの夜、静まりかえった家の中はいつになく暗く見えた。

 お姉ちゃんの様子が少し変わったのはその夜からだった。

 思うがままに突き進むようなところがあったのだが、そんな我の強さが押さえられて、まわりに気を配るようになった。少し大人びた感じだ。責任感も強くなり、とくに坊ちゃんやわたしに対しては、何が何でも守らなければ、という態度が普段の生活のはしばしに現れるようになった。
 いちど散歩中に野犬が現れてわたしに牙を剥いたことがあった。お姉ちゃんはわたしを背にしてそいつの前に仁王立ちになり大きく手を広げ、顔を真っ赤にして野犬を睨みつけた。そいつはしばらく唸っていたが、やがて根負けして姿を消した。するとお姉ちゃんはへなへなとその場に座り込んで大声で泣き出した。
 そうとう気持ちが張りつめていたのだろう。泣いているうちに次から次へとつらいこと、悲しいことが思い出され、泣き止むタイミングを失ってしまったみたいだった。わたしは涙でしょっぱくなったお姉ちゃんの頬をぺろぺろ舐めながら、自分もまたこの人を一生守ろうと心に誓った。

 そのままずっと続くと思っていたお姉ちゃんとの日々だけど、何年かして、いつしか散歩の係は大きくなった坊ちゃんにとって代わられていた。得意だった歌がもっとうまくなりたいと、お姉ちゃんは本格的に勉強を始めたのだった。毎日、学校が終わるとそのまま遠くの町まで歌のレッスンに通うようになり、家に帰ってくるのは夜遅くなってからだ。もちろん坊ちゃんと行く散歩も素敵で大好きには違いないが、お姉ちゃんと過ごす時間が減ったわたしは、ちょっとだけ物足りなさを感じた。でも日がとっぷり暮れてから帰ってくると、お姉ちゃんはまずわたしに向かって「ただいま」と声をかけ優しく撫でてくれる。それがわたしの新しい楽しみとなった。
 さらに時が過ぎ、新しい習慣もすっかり日常となっていたある日、いつものように夜も更けてから帰ってきたお姉ちゃんは、わたしの耳元に「今夜は特別じゃけえ、こっちきんさい」と囁きかけ、自分の布団にわたしを誘い入れてくれた。わたしはわずかな戸惑いを感じたが嬉しさがそれを打ち消した。お姉ちゃんはわたしの首筋をぎゅっと抱いて、ずっと「大好きだよ」「ごめんね」と繰り返していた。わたしはお返しにお姉ちゃんの顔を舐め続けた──「ごめんね」の意味を深く考えることもせず。

 お姉ちゃんと一緒に寝たのはそれが最初で最後だ。朝になるとお姉ちゃんは家を出て、そのまま帰ってこなかった。

 わたしには、何が起こったのかまったくわからなかった。夜になってもお姉ちゃんは帰ってこないのだ。いつまで待っても、あの「ただいま」という声は聞こえてこなかった。その晩も、次の晩も、その次の晩も。何か物音がするたびに、いくら深く眠っていても飛び起きた。もしかしたら、という期待を抱いて。でも、それが叶えられることはなかった。胸に重い石でも乗せられたようで、うまく息ができなくなった。散歩に出ても足下がおぼつかず現実味がない。ごはんも大好きだったのに、おなかが空くことさえない。玄関から庭の向こうの道をぼんやり眺め、気づくとそれだけで一日が終わっていたりもした。
 お姉ちゃんがいなくなる日がくるなんて考えたこともなかった。あの声も、あの眼差しも、あの優しく撫でてくれる感触も、甘い甘い香りさえも永遠に失われてしまったのだろうか。ふいに鋭い冷たさが尻尾から背を貫いてぶるると身を震わせ、わたしはひと声吠えた。わん。すると胸の奥から突き上げるように続けざまに啼き声がほとばしった。わんわんわん。もう止められない。こらえていたものを吐き出すように、わたしは虚空に向かって吠え続けた。

 わんわんわん。わんわん。わんわんわんわんわんわん。わんわんわん。わんわん。わんわんわんわんわんわん……………………

 背中にふわりと暖かいものを感じて、わたしは吠えるのを止めた。坊ちゃんが私を優しく抱きしめていた。
「寂しいじゃろ」
 坊ちゃんは私の首筋に顔を埋めながら言った。

 そうか、わたしは寂しかったんだ。足の力が抜けて私は座り込んだ。

 お姉ちゃんのいない生活に寂しさは募った。寂しいのは苦しい。でも、それは好きという気持ちのもう一つの顔だ。「寂しい」を捨てたら「好き」まで一緒に捨ててしまうことになるから、わたしは我慢する。お姉ちゃんを好きでなくなったら生きていられない。お姉ちゃんを忘れないために、わたしは寂しさと共に生きるのだ。そうして、再び日常は舞い戻った。日が昇りまた沈み、長い長い平坦な時間が過ぎていった。


★  ★  ★


「倒れてから三日じゃ。もう立つこともできん」
 坊ちゃんの声が微かに聞こえてきた。倒れたとは、わたしのことだろうか。三日? もうそんなに経つのか。いや、それよりずっと前から、わたしはこの朦朧とした世界に生きていた気がする。お姉ちゃんがいなくなってからずっと。目の前から消えたのはお姉ちゃんの方なのに、私の一部まで失くしてしまったかのようだ。本当にお姉ちゃんが、その一部を持っていってくれていたらいいのに。そうすればお姉ちゃんは、わたしのことを覚えていてくれるだろう。かつて、わたしの体のほとんどは「嬉しい」でいっぱいだった。お姉ちゃんがいつも「嬉しい」と一緒にいてくれたらいいなあ。久しぶりにお姉ちゃんの笑顔を思い出し、一瞬あの頃の気分がよみがえった。毎晩帰ってくると両手で抱きしめ首筋に顔を埋めて頬ずりしてくれる。ほら、ちょうどこんな感触だ。そして他の誰とも違うあの声で言ってくれるのだ。

「ただいま」

 まるで本当に声をかけられたような気がした。すぐ耳元で。たとえ幻でも、もっとよく聞きたくて、わたしは力を振り絞って声のする方へ顔を向けた。甘い香りが鼻をくすぐる。胸いっぱいに嬉しさが溢れてくる。こんな気分は久しぶりだ。まるであの頃に戻ったみたいに感じる。そしてやっとのことで重いまぶたを持ち上げると、目の前にはぼんやりと懐かしい懐かしい笑顔があった。その口元が動いて、わたしの耳にもう一度あの言葉が聞こえてきた。

「ただいま、ナナ」

 お姉ちゃんは、優しくわたしのおでこを撫でていた。安らかな気持ちで満たされ、体中の緊張が解けていく。そのまま宙へ上っていくような感覚だ。もう不安はない。わたしにはお姉ちゃんのそばが天国だから。おかえり、お姉ちゃん。


★  ★  ★


「ぐすっぐすっぐすっぐすっ……うえっ、ううう」
 大木の顔中の穴からは、いろいろな水分が流れ出していた。
「あふっ、あふっ。………っく。うええ」
 芦野も顔を押さえて妙な音を発していた。
 ふたりは寮の食堂で、久々の里帰りから戻った西秋の土産話を聞いている最中だった。
「なんじゃふたりとも。どうしたどうした」西秋は大木と芦野を交互に見た。
「だって……うっ、あふう、ナナが……ナナが……」芦野が答えるが言葉にならない。
「よがっだのう。まごどに、ぐすっ、よがっだ、うう、のう。ぐすっ……ううう」大木が汁気たっぷりの声で言う。
「おう、ほんまに驚いたわい。帰ったらナナがぶっ倒れとるんじゃからのう」
 西秋が腕組みをし眉根を寄せてうなずく。「どうしたことかと思ったわい」
「でも……っく。間に合、うう、合って……っうふう、よかった」芦野が指の間から声を漏らした。
「ほんまじゃほんまじゃ……何よりの手向けじゃった……」大木が手を伸ばして西秋の肩をぽんぽん叩いた。
「手向けって……」西秋が首を傾げて言った。「死んどらんぞ」
「え?」大木と芦野がぽかんとした。
「じゃからナナは死んどらんと言うに。何を早合点しとるんじゃ」西秋は呆れた顔をした。
「だって、腕の中でぐったりって……」腑に落ちない顔で芦野が言うのに、西秋が答える。
「話は最後まで聞きんさい。三日ほど何も食わんかったそうじゃけえ、腹を空かして気を失うたんじゃろう。目を覚ましたら、えらい勢いでめしを食い始めよった」
「でも帰ったらぶっ倒れておった、と言うたじゃろう」大木がティッシュで顔を拭きながら言う。目の周りも鼻の下も真っ赤だ。
「食い意地が張っとるからな。散歩の途中で妙なものを拾い食いしたらしいわい」そう言って西秋がからから笑う。「うちの一族は食べるのが特技じゃからな」
「面白くないのう」芦野と大木は少々むっとしている。
「まあまあ、機嫌なおしんさい。そうじゃ、写真を撮ってきたぞ。見てみるか?」
 新しいマネージャの松本から一方的にブログを始めることを通告され、三人は日夜ネタ探しに努めていた。西秋はここぞとばかりに家族写真を撮りためてきていた。彼女にとっていちばんの自慢は家族だ。
「ほれ、元気そうじゃろう」西秋は一枚の写真をふたりに差し出した。
「わあ」芦野と大木の顔がぱあっと明るくなった。

 やわらかい日差しの中、西秋とナナが寄り添って写っていた。西秋も、そして斜め上の西秋を見上げるナナも、目を細めてにっこり笑っていた。
【2010/10/20 14:30】 | あばれ旅SS
Black Perfume
あばれ旅


花の東京で天下を取れ! 大木黒綾ノ、西秋黒文香、芦野黒優香。広島出身のBP三人娘が繰り広げる、愛と涙の大冒険。

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※このストーリーはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです。
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