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BPSS05 天国にいちばん近い湯島
 ああ、これは無理じゃのう──大木は西郷さんを見上げながら嘆息した。
 大木はブログに掲載するため西郷隆盛像とのツーショットを撮影しようともくろんでいたのだが、まさか実際の銅像がこんなに大きいものとは考えてもみなかった。
 渋谷のハチ公を見習いんさい、あれくらいの高さなら記念写真撮り放題じゃ。そこんとこ西郷さんはわかっとらん。それにアレじゃ、そもそもどうして上野におるんじゃろう。公園で犬でも散歩させとったんか。
 どんどん文句が湧いて出てくる。自分が初めてハチ公を見たとき、その小ささに驚いたことも忘れている。場所はよく知られているのに、こんなサイズでは待ち合わせに不便じゃろう。それどころか、上京するまでは西郷さんの連れている犬がハチ公だと思い込んでいたのだった。地方に住む子供の東京に関する知識とは、かようにあやふやなものだ。
 しかたない、ここでの写真はあきらめて本来の目的地に向かうとしよう。大木は気を取り直して公園の階段を下った。


★  ★  ★


 マネージャーの松本からブログを始めると告げられたとき、大木は困惑した。日記もろくにつけたことがないのに、何を書いたらええんじゃ。いや、書くべきことがはっきりしておるアサガオの観察日記でさえ双葉までしか続かんかったぞ。とても自慢するようなことではないのだが、大木は偉そうに松本に詰問した。松本はぼそりと「なんでも」と答えるだけだった。いつものことながら、ちゃんとした答えが返ってきたためしはない。
 松本に頼ることは無理そうじゃ。しかし、やるからにはきっちりせにゃいかん。基本的に大木は生真面目なのだ。まずは敵を知る必要があると、大木は寮のパソコンに向かい、手当り次第ブログを閲覧していった。ウェブサービスを使ったいわゆる日記サイトに始まり各種乱立するブログ専用サイト、そして個人でツールを利用して開設しているものまで形式も、当然のことながらその内容も多岐にわたっており、たしかに松本の言ったとおり「なんでも」ありだ。だが、その中にもいくつかの傾向は見てとれた。
 政治やら世間の出来事やらに関してひと言もの申すもの、これはそれなりの見識がないと単なる文句になりがちで、だいいち詰まらない。却下。子供やペットなどの写真を載せてその可愛さを自慢するもの。どっちもいないしわざわざネットで自慢とか鼻持ちならない。却下。旅先のあれこれを紹介するガイド的なもの。旅行はしません。却下。読んだ小説や漫画の感想。感想など書く暇があるなら別のものをもっと読みたい。却下。映画の感想。感想を書く暇が以下同様却下。そのほか日々感じたことあれこれ。あーもうそんなもん自分の日記に書いといたらええんじゃ──あ、日記みたいなもんじゃけえ、ええのか。

 どうも関係ない人たちの膨大な発言の海を漂っていると、いらいらが募ってくる。こりゃあ、わしには向いとらんわい。ぽちぽちリンクをクリックするのにも飽きてきたころ、ひとつのブログに目が止まった。それは、店頭で売られている持ち帰り用の「あんみつ」を綿密に比較した記録だった。例えばあるコンビニに置かれた「あんみつ」については、こう記されている。

 ○月○日「○○樓」368円
 購入店:セ○ンイレ○ン○○店(○○4丁目)
 あん:つぶあん 寒天:80g 赤豌豆:7粒
 トッピング:白桃、黄桃、みかん、
 パイナップル、さくらんぼ×各1
 持ち帰り用としては珍しいつぶあん。甘さは程よ
 く上品。フルーツが多めで華やかだが、寒天が少
 ないため食感が物足りない。店頭での見栄えを重
 した結果と思われる。価格が若干高めなのはブラ
 ンド料が加味されているためか。

 こうした分析に加えて全体写真および具材をそれぞれ個別に撮影した写真も掲載されている、他に例を見ない一大データベースであった。なるほど。
「あんみつ」が好きなわけではないが、大木はこのブログにいたく感銘を受けた。そう、自分にも好きで好きでたまらないものがあるではないか。
 その名前を口にするだけで、口腔には唾液が溢れて受け入れ態勢に入ってしまう。その香りが鼻孔をくすぐれば足は勝手にそちらの方へ向かってしまう。もしも裁判でこれから一生それを食べ続けるべしと判決が下れば、喜んで刑に服することだろう。いや、そのためにわざわざ罪を犯しさえするかもしれない。大木が愛してやまない食べ物──それはカレーだった。

 BLACK PERFUMEの成功を目指して上京するとき、大木にはもうひとつの夢があった。名だたる名店がひしめく東京で、思う存分カレーの食べ歩きをすることである。しかしいざ東京で暮らし始めると、毎日の厳しいレッスンと学校、さらにはイベント出演やライブなど、その忙しさは層状以上で、いつしかささやかな希望さえ叶えられる機会を失っていた。そしていま、置き去りにされていた思いがむくむくと頭をもたげはじめた。わしがブログをやるなら、これじゃろう!
 少し考えれば、あまりにもポピュラーな食べ物であるカレーに関して他にブログが作られていないわけがないのだが、もはやそんなことは関係ない。ブログはすでに大木が自身の欲望を満たすための単なる口実だった。
 大木はYS-TK 7型の助けを借りて、カレー専門店のみならず洋食店、喫茶店、フードコート、そばうどん店に至るまで、カレーファンが訪問すべき店を探索していった。リストアップされた店舗は膨大な数に上り、大木としてはすべてを食べ尽くしたいところだったが、当然のことながらそれは不可能である。大木と7型はそのなかからあらゆる条件で店舗を絞り込み、リストを磨き上げていった。

 ふふふ、これだけあれば数年分のブログネタは確保したも同然じゃ。大木は満面の笑みを浮かべて完成したリストを眺めた。さて、最初に訪問するのはどこにしようか。

★  ★  ★

 上野公園を出て、中央通りを広小路に向かって歩く。その先にはなじみ深い秋葉原がある。大木は、ストリートライブの下見で初めて訪れて以来、何度も繰り返し足を運び、その頃の生活の一部となっていた秋葉原での日々を懐かしく思い出した。
 あれはえらいカルチャーショックじゃったのう。碇に連れられて歩き回る先々で出会うものすべてが目新しく驚きに満ちていた。あらゆるハード、ソフトを取り揃えた店舗がひしめきあい、そのどれもが凄まじい音と光の情報量で人々を誘惑する町並みは独特で、ここに似た場所は世界中探しても二つとないだろう。二次元と電脳世界と現実が交差する特異点として存在するバーチャルな町だ。温かいおでんが食べられる自販機にも驚いたものだったが。
 そして歩行者天国で何度も行ないBPの名を世間に知らしめたストリートライブと、三人の絆をいっそう深いものにした逃走劇。そう、いままさに歩いているこの道こそ、あの現場へと続いているはずだ。BPを新しいステージに引き上げてくれた町に、またいつか帰ることがあるのだろうか。いやはや、思えば斜め上の展開続きでずいぶん遠くまで来てしまったのう。

 あれこれ思いを巡らすうち上野広小路交差点に差しかかり右に折れると、ほどなく全身がスパイスの香りに包まれた。一瞬陶然として大木の足下がふらついた。あぶないあぶない。あわてて体勢を整え辺りを見回す。これは……近い! 近いも何もすぐ右手に、黒い地に鮮やかな黄で染めた店名が掲げてあるのが目に入った。
 これか。胸の奥に期待とも緊張ともつかない固まりが生まれたのを感じる。ここから、わしのもうひとつの夢が始まるんじゃ。いささか大げさではあるが、それが大木の偽らざる気持ちだった。店の前で大きくひとつ深呼吸して、大木はドアに手を伸ばした。
 やるかやられるか……勝負じゃ! 興奮しすぎて何かを勘違いしながら、大木はガラス戸を引き開け、歩道から一段高くなった店内へと足を踏み入れる。入り口のレジ前にいた店員が大木に向かって「いらっしゃいませ」と言った。

 カレーファンなら知らぬものはないほどの有名店だが、店内は想像以上に狭かった。右手にはカウンター、狭い通路をはさんで左手に二人掛けの小さなテーブルが四つだけ。二十人も入ったら満員になるだろう。内装はいたってシンプルで、インド料理店にありがちな過剰な装飾は見られない。アイボリーの壁にカウンターとテーブルの黒がきりりと締まった印象を与える。昼時はとうに過ぎて客はまばらだ。
 店員にお好きな席へどうぞと促されるまま、いちばん奥まで歩を進める。テーブル席に座ってもまったく構わない状況とはいえ、ひとりで複数の席を占有するのは気がとがめて、大木はカウンターの隅に腰を下ろした。基本的に大木は生真面目である。
 顔を上げるとすぐ目の前は厨房だ。中では二人の浅黒い料理人が立ち働いていた。「あ……」大木はびくりとして大きな目をさらに大きく見開き心の中で叫んだ。「イ、インド人じゃ……!」そのひとりがふと顔をこちらに向け「イラシャイマセ」とにっこり笑った。「あ、はい……。ど、ども……」大木はどぎまぎして視線を落とした。頭の中では「インド人、インド人……」と同じ言葉がぐるぐる回っている。むむ、さすが老舗じゃ、あなどれんわい。カレー好きを公言している割に、大木はインド人コックを見たのは初めてだった。
 さきほど出迎えてくれた店員がコップの水を置きながら、カウンターに置かれたメニューを指し示して言った。
「お決まりになりましたらお呼びください」
「あ、はい」大木はメニューを手に取り開いた。カレーの種類はさほど多くないものの、店の名前を冠した看板メニューをはじめ、それぞれ歴史に磨き上げられた逸品であるとの評判だ。しかし下調べは万全である。大木はすでに何を注文するか心に決めていた。
「あの……」店員を呼ぼうと顔を上げると、厨房のインド人コックとまたしても目が合ってしまった。
「えと、カシミールを……」大木の注文にコックはにっこり笑って「アリガトゴジャマス」と答えた。大木はぎこちない笑顔を返し、また視線を落とした。鼓動が速く、多く打つ。インド人、インド人……。

 カシミールはこの店でも最も有名で、同時に最も辛いカレーだ。7型とともにカレー店を探索している最中にも幾度となくお目にかかった名前である。実際店を訪れた人々のレポートを見ると、最大級の賛辞を贈る表現が並ぶ。いわく劇的な味、いわく奇跡の味、いわく天国の味などなど。はじめて口にした者は一様に衝撃を受け、たちまち虜になってしまうらしい。なかにはその魅力を悪魔の味と記すページもあった。数多のカレーを食べ尽くしたであろう通人たちが愛してやまない味とは一体どんなものなのか、試さないわけにはいかない。大木は迷いなくブログ第一回目を飾る一皿にこのカレーを選んだ。その逸品といよいよ相まみえることができるのだ。

「お待たせしました」
 カウンターに店名入りの紙ナプキンが敷かれてスプーンとレードルが並べられ、つづいて皿に平たく整えられたライスが置かれる。そして、使い込んだステンレスのベーカー皿に注がれたそれがしずしずと差し出された。「こちらカシミールです」

 黒い……。一見して大木はそう思った。カレーを特徴づけるターメリックの黄色とはまったく違う、深い褐色のソースがシーリングライトの輝きを映している。その表面はあくまでも静かで、深山に抱かれる湖を思い起こさせた。そして水面から小島のように顔を出しているのは鶏の腿肉とジャガイモだ。ひたすら静謐なソースに比べ、それらはぬらぬらとした官能的な輝きで大木を誘っていた。大木は一幅の絵のような光景にしばし見とれていたが、はっとして気を取り直した。いかんいかん、悪魔とはよく言ったもんじゃ。食べる前から取り込まれるところじゃったわい。
 居ずまいを正してレードルを手にしたものの、皿からカレーを掬おうとしたところで躊躇して動きが止まる。この静まり返った湖面を乱していいものだろうか。なぜか後ろめたさを感じながら、大木は意を決してレードルをソースに沈めた。

 掬い上げたソースを、静かにライスへまわしかける。乾いた平原に恵みの雨が降り注ぐように、ソースはいささかもよどみなく、あっという間にライスの隙間を縫ってしみ込んでいった。これは……まるでスープのようじゃな。米粒のひとつひとつにはソースが通り過ぎていった名残のスパイスが点々とまとわりついている。
 レードルをスプーンに持ち替え、ひとさじ分のライスとソースをよく混ぜる。スプーンの上でライスとソースが分離したまま口にする人がいるが、それは邪道だ。両者は渾然一体となってこそひとつの料理として完成される。それが、大木のカレーに対する信条だ。初めてのカレーと出会ったとき、ライスとソースを念入りに混ぜ合わせるのは大木にとって祈りを捧げるのに等しい。儀式を済ませてようやくカレーそのものを味わう至福のときへと至るのだ。大木はスプーンの先端にほんのわずかのカレー、すなわちライスとソースがまんべんなく配合されたそれをのせ、口元へと運んだ。

 カシミールを口に含んだ瞬間、喉から鼻へと一陣の風が吹き抜け、気が遠くなった。大木はインドの赤い砂漠を渡る風の音を耳の奥で聞いた。続いて、その彼方から砂塵を巻き上げてラクダの大群が押し寄せるように、刺激が地響きをたてて襲ってきた。熱い! 薄れゆく意識の中で大木が感じたのは、絶対的な熱さだった。そういえば、英語では熱さも辛さもhotと表現するんじゃったかのう、なるほどこれは同じ感覚じゃわい。店のカウンターでカレーにおおいかぶさっている自分の姿を天井から見下ろしながら、大木の魂はぼんやりと考えていた。
 最初の一口でカシミールは大木を翻弄した。もはやそれは、味覚を超える体験だった。

 突如全身から汗が噴き出し大木は我にかえった。ああ今わしはカシミールを食べよるんじゃ。宙に止まったままのスプーンを動かし、二さじ、三さじとカレーを口に運ぶ。だんだん意識がはっきりしてきた。ああ、カレーじゃ、わしは今カレーを食べておる。汗に濡れた顔は真っ赤に火照り額に髪が張りついている。
 大木はスプーンをレードルに持ち替え追加のソースを掬いとろうとしたが、ふと手を止め、ベーカー皿を両手で持ち上げライスの上でいきなりひっくり返した。
 カシミール地方を洪水が襲った。いや、大地がカシミールに呑まれた。血走った目でライスとソースをかき混ぜる大木は、地獄の釜で罪人を責め苛む赤鬼の形相をしていた。

 そしてカレーを食べる。食べる。食べる。口の中の辛さが次の辛さを求めて手の動きをせき立てる。食べる。食べる。食べる。さあもっと。ほろほろと煮込まれた鶏肉をスプーンで突き崩して食べる。滋味が広がり、雲間から光が射すようだ。そして食べる。食べる。食べる。汗は首筋を、胸元を、腋を伝い、流れとなっている。食べる。食べる。食べる。もっともっと。最初は舌を焼いた熱が、いまは胃の入り口あたりで燃え盛る炎となっている。食べる。食べる。食べる。大きなジャガイモを二つに割って頬張る。休憩の機会を与えられた舌が、ジャガイモの甘さを感じる。食べる。食べる。食べる。もっともっともっと。スプーンは疲れを知らぬ建設機械のように、カレーを掘り、持ち上げ、運ぶ。一方、大木もまた、食べる機械と化していた。食べる。食べる。食べる。そして食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる………。

 雨にぬかるんだ轍のような褐色のいく筋かだけを残し、いつしか皿はすっかり空っぽになっていた。大木は深いため息をついて白い皿の表面を眺めた。
 華々しい具材にもりたてられた口当たりのよいカレーが光の世界の代表ならば、このカシミールは暗黒の使者かもしれない。悪魔の味とはよくぞ言ったものだ。抜けるような青空とは、実は強い光と厚い大気によって本来そこにあるはずの星空が覆い隠されている状態である。暗黒にきらめく星々の世界こそが本当の空なのだ。大木はそんな深淵のような空をかいま見た気がした。


★  ★  ★


 放心状態で町を歩く大木の頬に冷たい夜風が当たる。たっぷりかいた汗が体表から熱を奪い背筋を震わせる。さっきまであんなに熱かったのにのう。大木はジャケットの襟を立てた。

 しかし世の中にあんなカレーがあろうとは、まことカレーの世界は奥深いもんじゃ。カシミールとの邂逅を思い出しつつ、駅へと歩を進める。あの体験はいったい何じゃったんかいな、果たして人に話してもわかってもらえるのかどうか。自分自身でさえ感情の整理はまだできていないし、それを伝える言葉も見つからない。とにかくこの感覚を持ち帰り、落ち着いてからじっくりブログの文章を……ブログの……ブログ?
 大木は歩道の真ん中でいきなり立ち止まった。家路を急ぐ人々が大木を避けて流れていく。

 写真……撮ってない……。

 最初にカレーが供されたとき撮っておくべき写真を、大木は緊張のあまり忘れていた。もちろん食べはじめてからでは、そんなことに気が回るはずもない。うわあしもうた、必ず写真は付けるよう言われておったのに。では、いっそのこと文章だけで……いやいや、それは自分自身、納得がいかん。このカレーブログは完璧でなくてはならんのじゃ。あくまで大木は生真面目だった。じゃあ、じゃあ……解決策はこれしかなかろう!
 大木は顔を上げ、踵を返して早足で歩き出した。店へと戻り、勢いよくガラス戸を引き開け弾む声で言った。

「カシミール、おかわりください!」
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【2010/10/20 14:30】 | あばれ旅SS
Black Perfume
あばれ旅


花の東京で天下を取れ! 大木黒綾ノ、西秋黒文香、芦野黒優香。広島出身のBP三人娘が繰り広げる、愛と涙の大冒険。

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pinksun

Author:pinksun
※このストーリーはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです。
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